昭和五十七年四月二十九日 朝の御理解


御理解七十八節
神の気感に適うた氏子が少ない。身代と人間と健康とか揃うて三代続いたら、家柄人筋となって、これが神の気感に適うたのじゃ。神の気感に適わぬと、身代もあり力もあるが、壮健でたまうても身代をみたすことがあり、又大切の者が死んで身代を残して子孫を断絶してしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば無事健康で子孫も続き、身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受けることが出来る。


 人間と身代と健康とが三代続いたらと、いうような表現で御理解下さってありますが、三代続いたらというのは、結局私共の信心が御利益を頂く、ということだけの信心だけでなくて、いわゆるおかげを頂くというだけの信心ではなくて、人間と身代と健康。
 まず人間が出来なければならんと思う。信心によって人が変わってくる。これはまあ、私自身の事を思うてみても、ただ、おかげおかげとおかげを追い求めておるときには、一つも人間が変わっていなかった。人間がいうならば、信心のある者もない者も同じような考え方であった。
 ところがいよいよ、真の信心ということ。今までの信心ではいけなかったんだと気付いたときからね、これはまず、自分自身が神様に一心にすがるだけではなくて、自分自身が改まってすがらなければならないということが、段々分からせて頂いて、まあ、こう思うてみますのに、本当に自分という者が、嘘のように変わっていっておる自分に、やはり、自分の心に合掌せずにはおれないようなものが、段々深く広くなっていっておるということね。
 信心、おかげを頂く、おかげを頂くというところから、信心を頂くということは、結局信心は日々の改まりが第一と仰せられるように、もう日々自分というものが、こう改まっていかるる。そこにいわゆる、人間と身代とといわれる、その人間が出けてくる。ま、人間だ出けてくるというか、何というでしょうかね。いうならば段々有り難うなっていくという、いうならば、我心が神に向かって、一歩づつ進んでいっておる。我心が神に向かって進んで行かずして、ただおかげだけの世界から、信心の世界に入って行く。
 人間と身代と健康。そこにです、いうならば、身代いわゆる頂けてくるところのおかげ、これが身代であるね。だから、どうでも、一つお互いの信心がね、いわゆる人間が変わらなければ、信心の継承ということが、ま、教団でもいつも、いわれます。
 例えば御道の信心を頂いて、親たちが信心をま、熱心に頂いとったけれども、子供達は信心にならない。ね。孫の代になったらいよいよしまえてしまうといったような、ではなくて、三代続いたら、と仰せられるのですから、も、どうでもね、そこには家柄一筋となっても、いうならば大坪家なら大坪家の、いよいよ繁昌の元が出来るんだと。為にはまず、私の信心を子供達に孫に伝えていくところからのおかげね。なかなか人間と身代と健康が足らわない。しかもそれが三代続いたらという、子に孫に伝わって行かない。ま、折角信心いただいて、有り難い事が分かっても、伝わらないなら、こんな残念なことはない。ね。
 昨日若先生がここでお届けを致しますのに、昨日の朝の事でしょう。お夢の中に親先生の声で-これからはあの世のための精進-これからはあの世のための精進という、ま、私の言葉で御夢の中で若先生に伝えたとこういうね。自分の信心を子供に伝えるということ。どういうことだと思いますか。
 昨夜、よるの御祈念がすんでから、私の部屋に恵城と一恵が孫達、一恵が今年から幼稚園にいっとります。二人連れ添って来て、家内が私の足を揉んでくれて、あのおりましたが、とんできて、一恵が申します事です。お爺ちゃんやら、お婆ちゃんはどうしてこげん、年寄りになったねっていうわけなんですね。どうしてお爺ちゃんやらお婆ちゃんは年寄りになったかとね。そりゃまあ、段々年を取るに従って、お爺ちゃんお婆ちゃん、あんた達も段々あのお爺ちゃんやら、お婆ちゃんに段々ならなきゃいけないよって云うて家内が言い寄りましたがね。
 ただ、その年寄っていくお爺ちゃんとお婆ちゃんの在り方というものを見たり聞いたりしておりますね。その見たり聞いたりがいつの間にか、それこそしみこんで行くように、子に孫に信心が伝わっていく。
 それにうちのお爺ちゃんとお婆ちゃんないつも、仲が悪かったね。又なら、我情我欲が強かったといったようなことが、子供の孫の印象に残っておるような事ではね、私は伝わらないと思う。私はこんな事をこれからはあの世の為の信心精進だとね、合楽でいわれますね。本当の事をいうたら、もう実際は信心とはあの世のためにあるのだと、皆さんも繰り返し私が申しておりますからね、聞いてはおられます。知ってはおられます。けれども、本当にそれが分かるための精進がなされなければならぬということです。もうとにかく、現世においてのおかげ、おかげと云うて、ま、おかげを頂きます。
 けどもそれは、いうならばね、ただ、おかげであってね、私共が信心の徳を受けて、あの世にも持って行け、この世にも残しておけるとこういわれる。ハハァ、これがあの世にも持っていけれるんだな、これがこの世にも残しておけるんだなあ。私この世にも残しておけるというのは、自分のいうなら在り方が子に孫に伝わることだと思いますね。
 又、あの世にも持っていけるというのはね、自分の心の中に、ハハァ、これがあの世にも持っていけるんだろうなぁと自分の心に確信がでけてくることです。それはいうならば、信心の喜びです。ハァ、この喜びがあの世にももっていけるんだなぁとね。
 行き先は地獄のはるかは知らねども、喜びだけは持っていきたい。と昔、頂いた御理解の中に、あの、教話がございましたね。だから、その喜びを求める信心。そこから、ね、いうならば、あの世の事が確信できてくるのです。はあ、この心がそのままあの世に行くんだなぁということですね。魂の世界です。この喜びの魂。この喜びのこの心があの世に、持っていけれるんだ。
 自分の心をのぞいた時に、あ、あさましい事ばっかり、我情我欲でいっぱい、のなら、心を自分で見極めた時にですね、これはね、これがもう、このままあの世に持って行かねばならんとするならばね、あの世でも助かりはないことになるところに、いうならば死生の安心も生まれないしね、いうならば成る程、この世はあの世のためにあるんだと、この世で、研いておく、この世で安心の心を頂いておく。この世で心に喜びを頂いてお苦という精進をしなければね、成る程、この世はあの世のためにあるんだなという実感は生まれてこないと思うね。
 この世は、これからはあの世のため。これからはあの世のための精進。
 これからはあの世のための精進ね。いうならば、自分のいわゆる信心が育っていくね、信心が頂けてくる。そこには人間と身代とが伴うてくるのです。人間というのは、私がいうなら、一歩一歩神様に近づいていくということでしょう。身代というのは、ね、人間の幸福の条件が段々足ろうていくということでしょうね。これを見、聞きしておる子や孫がです、これになら、ついてこないはずはないですね。
 しかもそれが三代続いたらとこうね、伝えようとして、伝わるものではないですけれどもね、問題は、自分自身の内容がです、あの世にも持っていけれるんだなと感じれれるような信心を、私は子に孫に伝えとかなければ、いやこれは、伝わっていくということであります。
 私共が果たして、どれだけ自分の心の段々いうならば変わる。先だって、あの原さんの表現じゃないですけれどもね、次元の違った世界にドンとこう座っておくということ。今まで問題になっておったことが、問題じゃなくなってくる。今まで残念無念と思っておったことがむしろ反対に、お礼が言えれる心、次元がつがってくるね。
 昨日は親教会の大祭から帰って、昨日は竹葉会でしたから、昨日は沢山お参りを頂きまして本当に有り難いと思いましたが、帰ってから私は、久留米の石橋先生の御教話でしたそうですから、それ皆どう受けてみたかということを昨日の研修では、それを研修の、も、中心にして皆さんの話を聞きました。
 ま、それぞれの受け取り、しかも合楽理念に基づいての頂き方をしておりますから、はあ成る程、やっぱ、おかげ頂くなあ、と私はこう思う。お若い先生だけれども、やはり、久留米の四代目の教会長として、養子にもらわれるだけあって、も、そこになにものかが、あるからこそあの由緒ある久留米の教会を継がれる事になったのだから、何かがある。何かもっておられるのに違いないね。神様はそこに目を止められておられて、久留米の四代として養子に迎えられたのだというふうな頂き方を皆さんがしておられますですね。
 ですからその何かをやっぱ頂いておる、それぞれ中にある方が、人間は土より出て土に帰るのだから、という話をなさったということですね。あそこをもう一歩合楽理念に近づかれたら、だからその内容とても、そのね、土の心で生きる生き方というものが出来なければならんと、いうことをまあ、おっしゃらなかったが、ただ稲穂がね、段々実に従って、あれは大地に対してお礼を云うておるんだという風に、表現されたということですが、ですね、実れば実ほどなら、頭が下がってくるんだけれども、ならどういう信心をすれば実かと。人間は土より出て土に帰るのだから、その道中とてもやはり土の心に徹して行けと、合楽では説くわけですから、そこんところが先生がおわかりになったら、先生もおかげを頂かれるだろう。
 いうなら、今までかつて、土より出て土に帰るのだという表現すらなかった。それをまあ、その言葉を使いながら、ならそんならその道中とても土の心で、ですから私自身もね、その道中を、今日、今日をその土の心で生きておる。皆さんもそう行きなさいという風に、説かれなかったという意味の事をいっておりましたね。
 ここで皆さんにそれを申しますね。いわゆる土の心でと、だからそういう心の状態を持ってです、私共が日々信心の稽古をするなら、もう絶対お徳が受けられる。そこから初めて、この世はあの世の為のこの世である。この世はあの世のためにあるんだといったような実感が、自分の心に合点がいく。自分の心が有り難うなってくるね、その有り難い心を、さあ、行き先がどこかわからん。地獄の果てかも分からんけれども、此の喜びさえ、持っていきゃぁ大丈夫だという、いうならば、死生のの安心も生まれてくるね、これよりは、あの世の為の精進を、いよいよさせてもらうということは、結局、常日頃、頂いておる合楽理念の基づく生き方をするならば、これが、子に孫に伝わっていかんはずはないね。
 自分自身もその、土の信心が身について行くに従ってね、成る程、この世はあの世のためにあるんだなあと、それはわからない、あの世のことは。
 けれども、魂の世界といわれるから、此の魂がこの世に生き生きと喜びにね、有り難い心になって行っておる自分というものが感じられたときに、肉体はなくなっても此の心があの世へ、でおかげを受けられるのだな。いよいよもってこの世では喜びの精進。
 それには、もいよいよもって、その道中とても合楽理念をもって行って、その道中とても土の心でいよいよ徹していかなきゃならん、という心も頂けてくるようになると思うですね。いよいよ自分の心が豊かに大きゅうなる。いよいよ自分の心が喜びにいっぱいになる。
 生き生きとして喜びが頂けてくるようになる。それがいわば楽しみであり、信心の喜びである、ね。 それに伴うてくるところの身代である。人間はね、いよいよ土の心に徹するところに、
 人間が変わっていく。そこには身代が伴うてくるね。人間と身代と健康とが足ろうて、それが三代続いたら、その三代続くというところに、大変、ま、皆がまあ信心の継承ということに悩んでおります。だからどうでも、子供に孫に伝えねばならんというだけではなくてね、その本当に残しておけれるしんじんをね、見せたり、又は聞かせたりしておかなければならん。
 それにはなら、昨日、若先生が頂いたという、これからはあの世のための精進ぞと、こうま、頂いたとするとです、いよいよもっていうならば、中途半端なごまかしの信心ではいけないということが、まあ痛感させられるだろうとこう思うですね。これからはね。
 此のおかげば、頂かんならんけん、参り寄りとというのじゃなくて、これからはね、あの世のための信心精進ね、がなれる。そこから、お互いがね、本当の信心の喜びね、そういう心でまあ、最後ん所にありますように、神の大恩を知らぬから互い違いになるとか、神の大恩を知れば人間も身代も出来、子孫にもというところが最後になって参りますが、あの、それが分かるだけではなくて、そういう信心の根本的な所をふんまえての、いよいよ大恩が実感として、なら、昨日の御理解でいうと、成る程障子一重がままならぬ人の身である、ということがいよいよわかってくるね。
 神様、此の神様のおかげを頂かねば立ち行くことではないという、そういう実感がいよいよ、私はね、信心の継承ということには、そういう内容が継承されて行く。金光様の信心すりゃ、おかげ受けられるぞというようなのではね、受けられればついてもこうけども、なら神様はそんなに、人間の願い通りにおかげを下さるわけにはいけない所が沢山あるのですからね。本当におかげの継承でなくて、信心の継承をね、いよいよ見せておかなければならない。
 お爺ちゃんやらお婆ちゃんはどうしてこげん年寄りになったかと、孫達が添えを不思議に思うておるね、そこになら、お爺ちゃんとお婆ちゃんの信心が生き生きとして、子供達の孫の目にいうならば、焼き付いていく、しみこんでいくね。そしてなら、結局生き方の中に、とにかくお爺ちゃんとお婆ちゃんの生き方が最高だったというような事が分かっていく限り、私は信心の継承は心配はいらんとこう思うですね。
 本当にひとつ、信心を残しておきたい。それを子供に孫に確かに伝えていきたい。為にはまず、自分自身がまず人間が変わらなければならないね。そしておかげを受けて見せとかなければならぬ。人間と身代と健康が足ろうて、三代続いたらね、神の気感に適うた氏子と仰せられるのですから。
 いよいよ、神の気感に適う氏子を目指す、ということはね、いよいよ天地の心を心とするというか、いうならば昨日、石橋先生の話じゃないけれども、土からでて土に帰る、だからその道中が稔りのおかげを頂くというだけではなくて、そのおかげを頂く為には、いよいよもって、その道中とても、いよいよ土の心で生き抜かせて頂く事だ、ということを自分が実験、実証していかなきゃならん。それが残るものだ、というふうに私は思います。           どうぞ